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短編『蟻』

創作話 、の話
鉛色の空気。五畳一間の住処。その中央で男は全身に敗北を纏い立っていた。裸だった。背骨がだらしなく曲がった53歳の男は肩を震わせながら「すみません、すみません、ありがとう、すみません、ありがとう、殺してくれ、食べてくれ」とパンクしたタイヤのような口で呟いている。
 
彼の粉を吹いた足の裏面と、ささくれにささくれを重ね本来の色が思い出せないほどささくれた畳との間には、無数の、蟻がいた。
 
彼は数年前から研究を続けていた蟻の大量養殖にこの度成功した。そしてこの五畳の部屋の中に10万匹の蟻を放った。
蟻は彼の皮膚を食っている。蟻達はその強靭な顎でもしゃもしゃと皮膚を食っている。
男は「自分が食べられている」、「蟻に、弱い弱い蟻に食べられている」その事実に興奮し感動し涙していた。
 
小さい時分、学校が終わってから夜遅くまで、家の庭にいる無数の蟻を親指で押し潰して殺す遊びを毎日のようにしていた。学校で毎日のようにいじめられていた彼にとって蟻こそが唯一自分より下の存在であり、蔑視の対象だった。蟻は弱い。蟻は小さい。一人で何もできない。仲間に助けてもらわなければ何もできない。そのくせ、せっせと動き回っている。
一度、他の虫を殺すかと考えたこともあったが、やめた。虫の中で蟻が最も手頃に殺せるし、数が減らない。どこにでもいる即ちどこでも殺せる。蝉やミミズを殺したとバレると危険な子供として扱われるが、蟻ならばそうはならないはずだ。証拠も残りにくい。手を洗えば済む。死骸は仲間の蟻が巣へ運ぶ。せっせと働いてる、懸命に生きている蟻達を親指一つで葬り去るその快感は何物にも代え難かった。
 
とある夏の日の夕暮れ、うだるような暑さの中帰宅した少年はまた、いつものように庭へ行き見つけた蟻を親指でちっ、ちっ、ちっ、と殺し、遊んでいた。
「おまえらは弱いんだ。僕より弱いんだ。金平糖一粒でさえ一人で運べないじゃないか。弱いんだよ。おまえらは弱いんだ。死ね、死ねよ、ほら」
学校でのストレスが幾分か減った。そろそろ終わりにするか、と思っていた所に、ふと今まで見たこともないような大きさの、蟻を発見した。柿の木の脇からゆっくりゆっくり、こちらに近づいてくる。
 
全長20センチはあるだろうか。こんなのは図鑑でもインターネットでも見たことがない。だがその黒光りする皮の光沢、身体の造りから、これは巨大な【蟻】でしかないと彼は無意識に且つ瞬時に結論付けた。
 
厭な汗がどっ、と毛穴から吹き出る。表情筋が引きつる。
身体はこわばり、動けない。
 
彼は、間違いなくその瞬間【蟻】を、恐れていた。
蟻を恐れている自分。
その事実が彼の自尊心を傷つけた。
唯一蔑視できる対象、その蟻に、今、脅かされている。
 
彼は物置に走り、親父の工具箱からカナヅチを取り出し、右手に握りしめた。
一目散に柿の木の下へ突撃し、巨大な蟻を、無我夢中で殴った。
一発一発にありったけの憎悪と羞恥を込めて、打ち付けた。
目を真っ赤に染め、手も真っ赤に染め、絶叫しながら、体力が尽きるまでで叩き続けた。
 
 
「晩御飯の支度ができたので庭にいた息子を呼び込もうとしたら、突然奇声を上げ、カナヅチで自分の手を叩きつけはじめましたー。笑っちゃいますよね。「おまえは弱いんだ、弱いんだろ、死ね、死ね」とかなんとか言いながら。骨が砕ける音も聞こえましたよ。気持ち悪っと思いました。」
 
「あなた、お母さんであるあなたは何故止めなかったんですか?」
 
「止めようにも、カナヅチぶんぶん振り回してるんですよ?それに、気持ち悪いし。 わたし、今度パーティーがあるのに顔に怪我でもしたら、ねえ。ていうかあなた、頭のおかしい息子を持つ母親の気持ちなんかわからないでしょ?血も繋がってない形式上の息子が狂ってる、そんな気持ちわかりますか?」
 
「あなたのお子さんは、息子さんは学校でいじめられていたそうですね?それについて何度か彼から相談も 」
 
「ええ。」
 
「救いの手を差し伸べてやらなかったのは何故ですか?それが原因で息子さんの左手がなくなったと言っても過言ではないんですよ?」
 
「知りませんよ。ていうか虐められるのがいけないんですよ。弱いから虐められるんです。強ければ虐められない。ただそれだけのことです。私は強い男しか興味ないの。とにかく、私には関係のないことです。お茶会があるのでこれで失礼します。 」

 

 
その後少年は病院で手術を受けた。
怪我を追ってから二週間も経ってからの入院だったからして、左手の切除はやむをえなかった。退院後、彼は10年間施設で暮らした。彼は10年間、一言も言葉を発さなかった。
 
 
施設を出た後も、職にはありつけず、施設員の手配で生活保護を受けながら、なんとか暮らしながら、蟻の養殖について勉強した。そして24年という長い年月をかけてやっとその大量養殖に成功した。ただの蟻ではない。彼が苦心して生み出したのは獰猛な性格を持つ、グンタイアリの一種で日本では西表島にのみ生息すると言われている、ヒメサスライアリだった。
 
そして今、彼は蟻に食われている。かつて侮蔑の、殺戮の対象であった蟻に、蝕まれているのだ。彼の半生、いや彼の人生はこの瞬間の為にあったといっても過言ではない。少なくとも彼自身は左手を亡くした瞬間からこの時のためだけに生きてきた。
「終わりだ。全てが終わる。」
 
一匹の蟻が彼の脚を伝い、腹を上り、胸を渡り、顔の輪郭をなぞり耳の穴から体内に侵入した。それに続くようにゾロゾロと無数の蟻が彼の身体の中へ入っていく。
喉を下る蟻、耳から皮膚の下に入り込み脳に侵入する蟻。20分後、胃が食い尽くされた。それから30分後、脳が食い尽くされた。
 
蟻を放ってから6時間と少しが過ぎたあたりか、心臓を半分ほど食われたところで男は死んだ。
どさりと、畳に死骸が転がった。
涙と血と涎、逆流した体液が織り成す奇妙な色味の液体が畳の色を変える。
男を巣へ運んでくれる仲間はいない。
それでも彼は男は満足げな表情だった。
 
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